マガジン

インタビュー 前田徹也(株式会社ワークスエンターテイメント)前編|ビジネス工場見学 FILE.2

2023.06.30

本インタビューシリーズは「ビジネス工場見学」をキャッチコピーに、経営者の頭の中を工場に例えて、どのようなプロセスを経て唯一無二のサービス創造に至ったのかを紐解いていきます。経営者の数だけ存在するビジネスの生産現場に潜入していきましょう!

この記事では
「経営者の過去の経験」を原材料の調達、「サービス立ち上げ」を加工・製造、「サービスローンチ」を出荷・提供という名称で表現しています。

前回のビジネス工場見学に引き続き第二回目となる今回は、パーソルキャリア株式会社(旧インテリジェンス)の創業者の一人であり、現在は『株式会社ワークスエンターテイメント』の代表取締役社長である前田徹也氏を訪ね、前田氏の頭の中にある「工場」での経営プロセスや考え方を見学させていただきました。

『株式会社ワークスエンターテイメント』は、FFS(Five Factors & Stress)理論をベースにした人事課題の解決やビジネスへの導入、さらに個人のキャリア開発の支援で、「人」や「組織」にとってそれぞれに合った環境を創り出すことに力を注いでいる企業です。

『人間関係を科学する』という新しいアプローチを実現しているそのサービスは、どのような経験が原材料となっているのでしょうか。インテリジェンスの起業を通してFFS理論のサービスに至るまで、そこにはどんな加工が施されてきたのでしょうか。前田氏の膨大な製造過程の秘密に迫るために、今回は前編と後編に分けて工場の全貌をお見せしたいと思います。

前田徹也(株式会社ワークスエンターテイメント 代表取締役社長)

1963年生まれ。京都府出身。明治学院大学に進学し、プロデュース研究会に所属。後の株式会社インテリジェンス(現:パーソルキャリア株式会社)の創業メンバーの1人である宇野氏と出会う。明治学院大学卒業後、株式会社リクルートに入社。総務部に勤務した後、株式会社シーズスタッフ(現:株式会社リクルートスタッフィング)に転籍。営業として女性事務職の人材派遣サービスに携わり、クレームの対処と人間関係の構築を身に付ける。その最中、創業メンバーである前田氏、宇野氏、島田氏、鎌田氏の4人が集い起業を決心し、退職。1989年に株式会社インテリジェンスを創業。社内の従業員同士のコミュニケーションや相互理解に関して頭を悩ませ、自己理解にも苦しむ中FFS理論と出会う。その後株式会社インテリジェンスを離れ、株式会社ワークスエンターテイメントを設立。FFS理論を活用してストレスマネジメントや人事における従業員の自己理解、他者理解、相互理解をデータから読み取り、組織が成長・改善していくための実践戦略の支援や個人キャリアの支援を行う。それぞれに合った働き方ができる機会を沢山作っていくべく邁進中。

~原材料の調達編~

起業への道は19歳の時。一つの出会いから始まった

ー 前田さんのご経歴を拝見すると、株式会社リクルートに入社した後に起業されているということですが、前田さんの頭の中に「起業」に関して種が埋まったのっていつ頃だったんですか?

前田 種というか、結果的に人生のベクトルが起業に変わったなっていうターニングポイントを遡っていくと、大学1年生の時が僕にとって最初の大きな転換期だったんですよね。

ー 前田さん、大学は明治学院大学に行かれていたんですよね。

前田 そうそう。でも実は、最初は違う大学に行こうとしていました。

ー 志望が変わったとか。

前田 いや、サッカーの推薦で行けそうだった大学があったんだけど、怪我をして浪人することになったんです。小学校から主たる生活基盤はサッカーだったんですが、浪人をした時に自分なりに考えて「この大学に行ったらサッカーをやろう」「この大学に行ったらサッカーを辞めよう」って決めて。それで結局、受かったのが明治学院大学。明治学院は、サッカーをやらないって決めていた大学でした。やっぱり、サッカーをやるなら高校時代の先輩とゆかりのある大学が良いと思っていたので、それ以外はもうやらないって決めていました。なんででしょうね。理由はなくて、脊髄反射です(笑)

ー 直感的に繋がりを大事にしていたということですかね。でもそれが却って転換期になったと。

前田 そうですね。大学でサッカーを辞めてやることも何もない時に、まるでコカ・コーラのモデルをやっているような4年生の先輩にチラシを配られたんですよ。それが明治学院大学のプロデュース研究会っていうサークルでした。

ー プロデュース研究会?

前田 そう、企画系のサークルだったんですけれども。そのお姉さんに会ってなかったら僕はそこに行ってなかったと思います。とにかく華があってね。キラキラしていました。

ー おおお(笑)それはチラシ受け取っちゃいますね(笑)

前田 そうなんです。でも、結論からいうとね。そこに実は、後々一緒にインテリジェンスを起業することになる宇野さんが来たんです。

ー へぇ!!運命の出会いですね!!

前田 まさにそんな感じです(笑)でも本当に、そこからサッカー以外の僕の第二の人生が始まるんですよね。

見学メモ その1
プロデュース研究会1980年代に明治学院大学に存在していたサークル。学生が自主的にコンサートやイベントを企画・制作し、公演を行うことを目的とした活動団体。この研究会は、卒業生の1人が企業でプロデューサーとして働いていたことから「プロデュース研究会」と名付けられた。参加者は、演出・音楽・プログラムの企画などの各分野での技術習得や、プロデュース力の向上を目指し、自己実現を図っていた。また、大学生活において社会性を養う場でもあり、公演は学内外から多くの観客を集めることも。
宇野さん宇野 康秀(うの やすひで)氏。株式会社USEN-NEXT HOLDINGSの代表取締役社長CEO。USENおよびU-NEXT、アルメックス取締役会長、キャンシステム取締役。また、総合人材サービス会社インテリジェンス(現:パーソルキャリア株式会社)の創業者。

2回目の転機。固定電話のキャッチホンで決めた人生の岐路

ー サッカーからプロデュース研究会にシフトチェンジされたとのことですが、その研究会ではどんなことをされていたんですか?

前田 元々その研究会って、当時の四年生が作った初めてのサークルで、その4年生の先輩が学生起業の走りだったんです。当時元々あったミスコンテストに対抗してミスターコンテストを開催して、その時にJCBが学生にカードを作ったり、学生に向けて資生堂がPRしたり、そういうコミュニティの支援をやってる企業の社長がその先輩だったんですよね。それで当時 広告代理店の電通に出入りさせてもらって、こういう世界があるんだっていうような広告の世界に触れました。

ー その「こういう世界があるんだ」という発見も、前田さんにとって貴重な経験の1つに当てはまりそうですね。

前田 それはもう田舎者だったから憧れちゃって。当時の広告の世界っていうと銀座に行って、所謂コンパニオンみたいな煌びやかなお姉さんと一緒に仕事してね。そんな華やかな世界で僕たちはアルバイトで裏方の泥臭い仕事をしていましたけど、夢中になる分大学はどんどん行かなくなってました。

ー そして、そのまま起業の方向へ?

前田 いや、全く(笑)

ー 全く(笑)

前田 起業するなんて全く思ってませんでした。だからこそこの時に宇野さんと出会えたことが、僕にとっては本当に大きくて。宇野さんの大学生活は起業する仲間と出会うための4年間だったんですよね。半分社会人みたいに先輩の会社を手伝いながら、起業の準備を着々と進めるわけですよ。後々、その中のメンバーとして選んでもらえたっていうのはラッキーでした。

ー なるほど。前田さんは宇野さんと出会うことで人生の舵を大きく切ったんですね。その後株式会社リクルートに入社されてますが、就活はどのようにされたんですか?

前田 これもまた転機なんだけどね。

ー おお。ぜひ聞かせてください。

前田 大学3年生の時にリクルートと出会うんですが、当時いわゆる「暴れん坊新卒採用」って言って、企画系のサークルとか、ミュージシャンとか、変な面白いやつを集めるっていう採用の時期に偶然あたって。そのリストに僕も入ったんですよね。これも宇野さんのおかげなんですけど。その界隈で知名度があった宇野さんと一緒にいるやつみたいな感じでリストに入って、リクルートの選考に入っていった形でした。

ー 最近でいうといちゲー採用やアスリート採用など、〇〇採用と称したユニーク採用みたいな感じでしょうか。

前田 そうそう。今でこそ見るけど、当時は凄く革新的でした。

ー リクルート以外も受けましたか?

前田 僕はね、ミーハーだったから(笑)業界一番の会社を沢山受けまくって、当たり前のように軒並み落ちていきました(笑)

ー 「沢山受けた」って、またその意欲が凄いですね。

前田 でも、最後にやっぱり広告代理店だけは通って。そうして残ったのが博報堂とリクルート。

ー それは、もちろん結果はもう分かっているのですが、決め手はなんだったんですか?

前田 これね、本当に忘れもしないんですけど。その昔は固定電話のキャッチホンっていうのがあって。博報堂とリクルートで迷っていた時に、ちょうど父親と宇野さんと切り替えながら電話するタイミングがあったんです。実は博報堂は父親の関係だったので、もちろん父は絶対博報堂に行くと思ってるじゃないですか。

ー 確かに。

前田 でもね、そこで宇野さんに言われるんですよ。「僕はいずれ前ちゃん(前田氏)と起業して一緒に仕事したいと思ってるから、リクルートに行った方がいいと思う」って。で、リクルートに決めました。

見学メモ その2
暴れん坊新卒採用1980年代にリクルートが展開していた新卒採用の新しい手法。これまでの新卒採用では学歴や成績などの一次的なスクリーニングを行い、面接や試験で選考を進める方法が一般的だった。しかし暴れん坊新卒採用は、選考の最初の段階から自由な発想やアイデアを重視し、個性的でアグレッシブな学生を発掘することを目的としていた。
固定電話携帯電話などの移動体電話と異なり一定の場所に固定された電話。特に、個人宅に設置されたものは「家電」(いえでん)もしくは「一般電話」とも俗称される。
キャッチホン通話中にかかってきた別の電話を信号音で知らせる電話サービス。話し中の通話を保留にしたまま、後からかかってきた電話を受けることもできる。

ー うわぁ、格好良いですね。その時お父様は?

前田 その後、父の電話に切り替えてリクルートに行くことを伝えました。もう怒った怒った。父は反面教師なんですよね。父の兄が結核で若い時に亡くなられて、当時父は結核の注射代を稼ぐために潰れない会社に入れって言われて入ったんです。その流れでとにかく良い大学、良い就職っていう考え方だったので。控えめに言っても親子仲は良いとは言えなかったです。

でもやっぱり子供が生まれて父が亡くなって、初めて親のありがたみが分かりました。あの頃は反抗心というか父親には負けないぞっていう反発心が、もしかしたら自分のエネルギーの元だったのかなって思います。

ー 宇野さんは、お父様が経営者だったと拝見したことがあったので、てっきり前田さんもいわゆる家業とか経営一家だと思っていました。

前田 そういう遺伝子があるかないかだとあるかもしれない。僕の父方の祖父が京都で呉服屋をやっていました。

ー そうなんですか。

前田 結果的には叔父が継いで、今は閉じてしまったんですが。僕に「継がないか」っていう話がきた時は、もうインテリジェンスをやっていたのもあって断りました。後は僕自身が着物を売るイメージが全然できなかったのと、今みたいにECサイトなんていうものもなかったので。

リクルートに集まった1980年代を生きる猛者たちに心が揺さぶられた

ー 実はリクルートへの入社やインテリジェンス創業の裏で、色々な可能性があったかもしれなかったんですね。

前田 そうかもしれない。それでもリクルートに入って良かったって今でも思います。リクルートって会う人会う人本当に魅力的だし、若いのに権限を持っていたり、29歳で世界を語る人もいて。

ー 1980年代っていうと高度経済成長期が終わって、多くの企業が国内市場に注力していた頃ですよね。ちょうど円高が始まって海外旅行に行く人がようやくちらほら出てきた時期。

前田 偶然旅行事業をやっている人だったかもしれないけど、それでもびっくりしました。特に、当時そこにいたメンバーが凄かったんですよ。

ー どんな方がいらっしゃったんですか?

前田 「新卒暴れん坊採用」の時の採用担当が株式会社リンクアンドモチベーションの会長の小笹さんだったり、同期が今のリクルート会長の峰岸さんだったり。

ー 何かエピソードがありますか?

前田 小笹さんはやっぱり当時から起業家であり、実業家であり、経営者でしたね〜。小笹さんがリクルートを辞めるっていう電話がかかってきた時に、「いやぁ、小笹さん。もう独立した方が良いんじゃないですか」って言っちゃったんですよ。若気の至りですね。そしたら小笹さん、もう3ヶ月後には辞めて独立されました。

ー もしかして前田さん、金言だったんじゃないんですか。その時。

前田 いや〜、どうでしょうね。僕が辞めた方がいいよって言って辞めるくらいだったら、多分来てないと思います。辞めるのは最初から決めてて、一応確認してみようか、みたいな。そもそもかなり優秀なんですよね。小笹さんって。

ー それは、リクルート時代に?

前田 リクルートで一年間、小笹さんにお世話になったんですが、その時に新卒採用のノウハウは全部小笹さんに伝授してもらいました。小笹さんってもの凄く仕事が丁寧なんですよね。大きなビジョンはもちろん、細部をものすごく大切にする。フォローアップも欠かさないし、付箋をね、電話のところに40枚とか50枚貼ってるわけですよ。To do リストを書き込んで、それを一個ずつ潰してるの。これを外さないと帰らないみたいな。

「新入社員の時は、一番多い時で残業200時間」

ー 凄いですね…。じゃあ新卒採用のノウハウは小笹さんに教わって。そしたら前田さんのリクルート時代のお仕事内容は、新卒採用ってことですか?

前田 あ、ううん。新入社員の一年間は、総務部のオフィスレイアウト担当っていう仕事をやっていました。

ー オフィスレイアウト担当!?

前田 当時リクルートの活性化策の1つに、働く環境を変えることでモチベーションを継続させるっていう施策があって。僕はそのオフィスレイアウト担当で、3ヶ月に1回あるオフィスの移動を担当していました。もうね、支社が変わったり新しい事業が増えたり、オフィスビルごと移動したり。人が働いている時は内部や外注の方と打ち合わせをして、土日と夜の人がいない時に実際に物を動かしていました。

ー それって、休みなくないですか?

前田 ない(笑)だから新入社員の総務時代の時は、一番多い時で残業200時間とか。

ー ええっ!?

前田 だから土曜日を含めて、毎日タクシーで午前様。日曜日の午後だけ休んで。それで200時間行くんですよ。新入社員時代は、基本給より残業代の方が多かったです。キツかったですね。キツかった。もう眠くて眠くて。合間を見てどうにか寝ようとするんですが、ポケベルが鳴って「お前、今どこにいるんだ!」ってよく捕まってました。でも、総務部にいたことも結果的には良かったってなるんですけど。

見学メモ その3
ポケベルポケットベルの略で、1990年代に主に日本で普及した小型の無線通信機器。ポケットに入るほど小さく、着信の際に音や振動で知らせることができ、相手に対して簡単な文字のメッセージを送信することも可能。

ー 結局、どのくらいまでその部署にいらっしゃったんですか?

前田 2年目が終わるくらいまでかな。同期から声がかかって、リクルートスタッフィング 当時でいうシーズスタッフに営業として転籍することになるんです。ここが、女性の事務職の人材派遣のサービスをやってたとこで。これがね、僕の人材ビジネスの始まりなんですよ。

「人材サービスを人材紹介じゃなくて人材派遣からスタートできたのが最大の資産」

ー 前田さんの人材ビジネスの始まりって、人材派遣がスタートなんですか!?

前田 そう。でも人材ビジネスのスタートが派遣っていうのは、実は凄く良かったんです。もう基本中の基本なんでね。

ー へぇ!昔と今の派遣の形式は、根本的にはそんなに変わらないですか?

前田 職種が広がったりみたいなのはあるかもしれないですが、形式的にはそんなに変わらないですね。当時は求人を取りにいくことと、派遣スタッフ自体の紹介営業と、派遣スタッフを紹介して期間中のフォローも営業の仕事として行っていました。

ー かなり多岐に渡ってやるんですね。

前田 そうそう。コーディネーターっていうのは面談をして入社までのフォローをしてくれるんだけど。一旦派遣契約が始まったら、連携はするんですが、営業の仕事になるんです。でもそこでね、僕はギネスを作るわけですよ。

ー え、そうなんですか?

前田 単発も受けて、社長から取るなって言われた仕事もガンガン取ってきて回してました(笑)最大400人くらい。

ー ええ!!1人で!?

前田 1人で。

ー できるものなんですか?

前田 これコツがあって。派遣スタッフの人たちと関わっていく中で、クレームになる原因や揉める原因に対して数をこなすことで、その対処法ってある程度決まってくるんですよね。それで、そこのマネジメントシステムを作っていきました。

ー 確かにこれは数を捌いていかないと、統計出ないですね。

前田 それが上手く回った。色んな派遣スタッフのクレームを聞いて企業側にサウンドする。これが何かっていうと、労務の仕事なんです。労務マネジメント。そのノウハウがこの時、知らぬ間に400人分自分の中に蓄積されたんです。やっぱり、会社にも本人にも損をさせない妥協点・融合点がどこなのかを見つけることが正義じゃないですか。その経験は、もうこの派遣の時からスタートしていました。人材サービスを人材紹介じゃなくて人材派遣からスタートできたのが、僕の最大の資産ですね。

ー そこは盲点でしたね。やっぱり、人材と言えば人材紹介っていうイメージがあったので。

前田 全然違うんですよ。人材派遣やってると人材紹介できるけど、その逆は難しいんじゃないかな。労務の知識があまりないから。

「クレームは最大のビジネスチャンス。クレームが来たら喜んでました」

ー なにかシーズスタッフの時の話で忘れられない、もしくはめちゃくちゃ面倒臭かったこととかありますか?

前田 そうですねぇ、やっぱり新規のお客様の1人目って凄い重要じゃないですか。それで、あれは忘れもしない。とある外資系企業の秘書の案件があって。外資系の秘書って時給が高いんですよね。で、半年くらいかかってやっと求人をもらって、面接も通ったんだけど……。。

ー けど?

前田 その方をいざ連れて行くってなった日に、来なかったんだよね。

ー うわぁ、最悪だ〜(笑)それはいわゆる飛んだっていうやつですか?

前田 飛んだ(笑)それはね、一番ショックだった。

ー その時って、謝りに行かれたんですか?

前田 もう謝り倒しました。部署に行って、人事に行って、人事の責任者のところにも行って。でもそこで学んだことは、クレームは最大のビジネスチャンスになるということなんです。僕と宇野さんで行って謝り倒して、その後に新しいスタッフをすぐに出しました。結局その後、1年間で20〜30人をその企業で決めることになるんです。

ー えええ!!凄いですね!!

前田 やっぱり初動が一番大事。それからはもうクレームが来たら喜んでました(笑)インテリジェンス時代も、メンバーからクレームが来たら「すぐ行くぞ!」ってなってましたよ。それはビジネスチャンスが広がるから。そこでの対応も営業のチャンスなんですよね。その時に誠意を見せれば信用もしてくれるし、それが発注に繋がる。そういうのも派遣事業の時に身につけました。

ー これ格言ですよ!クレームから営業チャンスだって抽出できる人、中々いないと思います。

前田 だからインテリジェンスの時の部下は、皆嫌がってますけどね(笑)その時は厳しくて当たり前みたいな時代でもありましたし。でもクレームだけは僕が喜んで行くって知っていたので「もう飛びました!」みたいな感じで報告してくれてました。それで「行こう行こう。すぐ謝りに行こう」って。すぐ電話して謝罪に行かせてもらったり、電話に出てもらえなかったらもう直接行って待ってたりしました。顔見た瞬間に謝るみたいな。やりまくってましたね。新規のアポイント取ってオーダーもらうより、そっちの方が全然成功確率高かったです。

ー そこの誠意とかみたら、信用できると思われますよね。

前田 そう。あとは謝るだけじゃなくて次の手を必ず打ってました。謝って、OKしてもらえた時のことを想定しながら、コーディネーターの方に次の候補の方を出してもらって。

ー へぇ〜、中々思いつかないですよ。今だと割と営業も形式化してるじゃないですか。でも、そういう表面的なものじゃないってことですよね。

前田 やっぱり人材サービスってマッチングが肝だから。お客さんは企業からお金を貰うんだけど、いわゆる派遣にしても紹介にしても人材サービス全部に言えることなんだけど、これはもうマッチングのクオリティなんだよね。成約が継続するかは、ファーストマッチングとクオリティコントロールによるんです。色んなところに提案するチャンスがあるっていうのが人材サービスの面白さだよね。仲良くなれる機会はいくらでもあるから。こっちの気持ち次第かな。

ー じゃあリクルート時代にそれを学んで、そこから起業に向かっていくんですね。

前田 この時もまだ起業する気はなかったんだけど。ひょんなことで創業メンバー4人と関わるようになるんです。

<インテリジェンスの起業からワークスエンターテイメント立ち上げは、後編へ>

※2023年7月上旬ごろ配信予定


今回のビジネス工場見学は楽しかったですか?
前田氏から出荷されたサービスは下記から確認してみてくださいね!

『株式会社ワークスエンターテイメント』HP https://works-enter.co.jp/

さて、次は誰の工場を見学しよう。

企画構成・インタビュアー いそっち

事業戦略策定、戦略に基づく戦術(マーケティング、コンセプト、コンテンツ)の企画を生業としている。 以前はアドテク業界でトレーダー、HR業界でアナリストを務める。座右の銘は「1%くらいが好きになってくれれば良い」。好きな食べ物TOP3はいちご大福、柿の種チョコ、サーティーワンのポッピングシャワー。Twitterアカウント「ふたむら、曰く@observefutamura(https://twitter.com/observefutamura)」の運用者。お仕事のご相談はお気軽にDMまで!

文章・写真 泡沫コト

7歳の頃から小説を書くことに魅了され、2018年からフリーランスライターとして活動開始。現在はwebライティングをはじめWebサイトや広告などのコピーライティングや、ゲームやイベント、映像関係などのシナリオ・脚本制作を行なっている。また、小説や詩、エッセイや写真などの表現活動を通して物語やコンセプトの創作にも取り組んでいる。好きなものは珈琲、散歩、温泉、アート、エンタメ全般。これからゲーム配信に挑戦しようとしている。

インタビュー実施場所

Studio HEYA(スタジオ・ヘヤ)

東京・西日暮里にあるキッチン併設のハウススタジオ。
朝も夕も自然光が差し込む2階の南西向きに位置しており、木とアイアンとヴィンテージ家具がバランスよく調和する空間です。
ファッションポートレートや商品撮影、キッチンシーンを取り入れたライフスタイルカット、自然光を活かしたレシピカットなど、さまざまなシーンの撮影に適応できます。

スタジオの詳細が知りたい方はこちらから!(https://heya.lamm.tokyo/

マガジン