主義を問われたとき、言葉にできますか?正しさではなく、スタンスを語る時代にどう向き合うか。
- THINKING
DATE . 2025/11/17
こんにちは。経営と創造をつなぐ会社、経営のための創造社・二村康太です。企業のMVV策定やブランド構築支援、そしてPodcast『日暮里ゼミナール』などを通じて、自分の人生を生きる人を応援する活動をしています。
先週金曜日、名古屋で「プロコワ」というコワーキングスペースを運営されている久米由浩さんのライブ配信に呼んでいただき、お話してきました。久米さんは、空間や人とのつながりを媒介にしながら、東海エリアを中心にプロデューサーとして活躍されている方です。
アーカイブはこちらからご覧いただけます。
(https://www.youtube.com/watch?v=obaHAPkyJDI)
普段の僕は、企業支援の仕事でもPodcast『日暮里ゼミナール』でも、相手のことを引き出す側。だからこそ今回は「お金を稼ぐとは?」「プロデューサーとは?」といった核心的な問いを逆に投げかけてもらい、自分の考えを引き出してもらえるという、とても新鮮な体験でした。
自分の答えを言葉にできるか?
この配信を通じて、あらためて感じたのは、「聞かれたときに自分の考えをきちんと答えられる力」の重要性です。
20〜30代の頃の僕は、それがまったくできませんでした。なんとなく話はできても、そこに確固たる理由や背景がなかった。自分の意見を語っているようで、実はどこかで仕入れた知識や正論に寄せていただけなのかもしれません。
もちろん、勉強したり分析したりすることも大切です。でもそれ以上に、「自分はどう考えるか?」を持っているかどうか。それがすべての起点だと思うのです。
それは、正しいかどうか、他人に評価されるかどうか、とはまったく関係がない。自分が世の中をどう見ていて、何を大切にし、どう生きたいと思っているか。それを言葉にする訓練を、僕たちはもっと日常的にすべきだと感じます。
主義の話は対立ではなく、自己の軸の話
30代の頃、とある先輩にこう聞かれました。
「お前は、原発は再稼働すべきだと思うか?」
当時の僕には、はっきりとしたスタンスがありませんでした。どちらが正しいのか、根拠を持って語ることができなかった。でも、今の僕はその問いに対して明確な立場を持っています。それは、知識や理論ではなく「主義」によって決まるものです。
原発に限らず、あらゆる社会的な論点には答えがありません。だからこそ、主義=生き方のスタンスが大切になります。そしてそれは、人それぞれであっていい。
僕は「死ぬまで自分の好きなことをし続けたい」と思っています。だから、短期的なゴールや競争にはあまり関心がありません。それを甘いとか非効率と批判する人がいるのも当然。でもそれは単に価値観の違いであり、僕の人生や思考を否定する理由にはなりません。
集団は、価値観でつくられる
だからこそ、リーダーは自分の価値観を言語化しなければならない。そして近しい価値観を持つ人たちと共に生きていく。それでいいのだと思います。
それが企業であり、国家であり、コミュニティであり、「集団」というものの本質です。
世の中が良しとする流れにただ従って、足りないリソースを集めるだけでは、いずれその集団は成り立たなくなる。何を大事にして、どこへ向かうのか。その「軸」を持たずして、大きな流れに巻き込まれない集団づくりはできない。
今回のライブ配信では、こうした話までは深くしていません。でも、問いを投げかけられ、自分の考えを口にする中で、あらためてそんなことを考えるきっかけになりました。
自分が何者かを言葉にできるか?
この問いに答えるためには、やはり日々自分に問いかけ続けるしかありません。
自分は何者か?
何が好きで、何が嫌いか?
どんな人生を送りたいのか?
結局は、日常の中でそれを考え続けること。それが「自分の人生を生きる」ということの、最も基本的な実践だと思います。
もし、この記事に共感してくださった方がいれば、ぜひ以下の活動も覗いてみてください。企業のMVV策定や、ビジョンから立ち上げるブランディング、Podcast『日暮里ゼミナール』のゲスト出演なども随時募集しています。気軽にDMまたはフォームからご連絡ください。
ABOUT US経営のための創造社私たちの考え方と取り組みを知る
RELATED LINKリンク先を開くwww.youtube.com
私たちが配信している番組
仕事やキャリア、文化をめぐる対話を、音声でも発信しています。
関連する記事
-
DATE . 2026/10/21
インディペンデンス・デザイン®|全11回
-
DATE . 2026/05/20
AI時代だからこそ、クリエイターが起点になるということ
-
DATE . 2026/04/26
AIに仕事を奪われるのではなく、「奪われる側」に留まるかどうかの話だと思っています